父 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト
(大シーボルト)Philipp Franz Balthasar von Siebold [1796年2月17日 – 1866年10月18日]
西洋人として初めて出島外に鳴滝塾を開校し、日本人に最新の医学を教えたフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト。
彼の活躍によって、日本国内の医学は飛躍的に発展し、彼やその弟子の手によって多くの命が救われたのは良く知られた事実である。
しかし、彼の功績はそこに留まらず、生物学、民俗学、植物学、地理学等の多彩な才能を活かして日本を研究し、帰国後は大著『日本』を出版。当時のヨーロッパにおいて日本学の祖として海外に日本のことを広めた。
その後、幕府の外交顧問として再来日後も日本の研究を続け、生涯を懸けて日本を愛した彼の遺志は日本初の女医となる楠本イネ、外交官として外務省に奉職した長男アレキサンデル、同じく外交官として兄と共に日本が初出展したウィーン万博の責任的役割、日本赤十字社設立に繋がるジュネーブ条約への加盟、日露戦争に際してのヨーロッパ諸国でのロビイスト活動など日本外交における数々の実績を残した。