兄 アレキサンデル

アレクサンダー・ゲオルク・グスタフ・フォン・シーボルト
Alexander George Gustav von Siebold [1846年8月16日 – 1911年1月]

兄アレキサンデルは1859年(安政6年)、父大シーボルトの再来日に伴って来日。
1861年(文久元年)には英国公使館の通訳官となり、1867年(慶応3年)の徳川昭武公の使節に随行。その帰国時に連れて戻ったハインリッヒと共に、1869年(明治2年)にわずか10日程度の時間で日墺修好通商条約締結に成功。翌年より、日本政府に招かれ日本政府雇いとなる。
墺洪帝国公使館勤めのハインリッヒと共に、ウィーン万国博覧会への日本国の参加への調査や勲章制度の導入に尽力し、また条約改正に向けて岩倉具視、伊藤博文の諮問に応じた。ウィーン万博では佐野常民の補佐役として出張。帰国後の1875年(明治8年)には大蔵省専属となる。
1877(明治10)年、西南戦争の惨禍を憂い博愛社(現在の日本赤十字社)の設立を三条実美・岩倉具視に提言し、ハインリッヒとの綿密な連携協力のもと、博愛社設立。
1878(明治11)年パリ万国博覧会の政府名誉委員となり、同年に外務省雇いとなり在ベルリン公使館に勤務。条約改正会議の舞台においては井上馨外務卿の秘書に就任し、改正案起草に加わった。
その後も、日本と在外公使館を行き来し、1910年(明治43年)には枯れの日本政府への奉職40年に対し、勲一等瑞宝章を賜っている。翌年にジェノバ市近郊のペグリで死去、享年65歳。その活躍を見るにアレキサンデルは、父大シーボルトの政治・外交的才能を色濃く受け継ぎ、まさに父が志半ばであった日本政府に対する政治・外交面での功績を果たしたと言っても過言ではない。