シーボルト事件の新事実
事件の経緯

高橋景保が伊能図のうちの特別小図と称される縮尺タイプの日本地図を、オランダ本国あるいは蘭領東インドの政庁があったバタフィアにおいて、彫刻開版をもって銅版印刷地図を40~50部製作して、1825年の異国船打払令の布達で知られるように、対外関係の緊迫化を背景に、日本の国家の在り方を明確にして対外防衛に備えるという高橋独自の壮大な構想と野心によってプロジェクトを内密に計画し、江戸滞在中のオランダ商館長のドゥ・ステュルレルにそのことを依頼した。
この時、高橋は商館長に相談後、そのままシーボルトの部屋を訪ね、同様にシーボルトに伊能図を見せ、銅版地図印刷の構想を告げた。
これらの事実解明により、1827年の高橋からシーボルトへの伊能図の特別小図の譲渡は、江戸参府後に両者の間で文通された書簡の内容が裏付けとなっており、ドゥ・ステュルレルが1826年にバタフィアに帰還し、新任のメイランに商館長が交代されていたことから、高橋は江戸滞在中に内密に依頼したプロジェクト事業を出島在留のシーボルトに託して計画を進めたことを、梶教授は論文で明らかにしました。

事件の発覚後

シーボルト事件の発覚によって、この高橋のプロジェクトは頓挫しますが、商館長メイランはバタフィア政庁より、高橋がオランダ商館に日本地図の印刷を依頼した事実について調査するよう密命を受けています。
メイランは長崎奉行にこの事実を確認しますが、高橋が1829年に獄死して事実確認ができないこと、そして日本地図等を外国へ譲渡することは国法であるため、幕府御用で印刷を依頼することはあり得ないこと、こうした回答を受けて、バタフィア政庁に報告しています。これにより、現在まで、高橋のオランダ本国等の海外での伊能図の銅版地図印刷のプロジェクトは、日本とオランダの双方で歴史的事実として認識されることがなかったと、梶教授は指摘しています。

シーボルトからの高橋への感謝の言葉の刻まれた石碑
ドゥ・ステュルレルの参府日記の翻訳を通じて、高橋のプロジェクトが明確となり、伊能図の特別小図の写しは、シーボルトが伊能図を事前に理解していて高橋に所望したものではなく、高橋が銅版地図印刷の依頼をするために伊能図を見せ、内密に発注したことが明らかになったいう新事実が判明をしました。
