大坂、京都を経て東海道で江戸へ

都からの旅程はスチュルレルが先を急ぎ1日40キロも進む強行軍となり、シーボルトは研究の妨害と大いに憤慨をする。鈴鹿峠では弟子の湊長安が待ち受けて大量の植物とオオサンショウウオをシーボルトに送る、このオオサンショウウオはシーボルトが帰国時に連れて帰っている。





峠を越えて名古屋城下を経て、岡崎・浜松も過ぎ、25日には大井川を渡った。
幕府の外堀とされる大井川は橋を架けることが事も渡船も許されない、人を運ぶ人足の強靭さに驚嘆。駿府を経て27日に興津へ、そこで興津川の増水により足止めされると強行軍に不満の溜まっていたシーボルトは『日本の川の神に感謝』と記し、久々の研究作業に満足。シーボルトは渡河後に通過した富士山に興味をもったがまたもやスチュルレルの意向で立ち止まれず、後の1828年に弟子の二宮敬作を調査に派遣し、計測、3794.5Mとほぼ現在値と近い測量を成功する。


沼津から3月1日(旧暦)に箱根峠を越えて、関所を通り小田原へ向かう。
箱根関所を通過後は駕篭を降りて渓流沿いを歩く、途中の畑宿場で寄木細工に感動する。
小田原到着時は夜の10時を超えており、さすがのシーボルトもこの日は夜の資料整理を断念したそう。
2日に小田原を発った後、藤沢・川崎を経て江戸へ。 大森(東京都大田区)にて薩摩藩主の島津重豪、中津藩主の奥平昌高(重豪の次男)の出迎えを受け、彼らの先導で午後2時頃に日本橋の長崎屋に入る。
