江戸参府とは
1609年にオランダ使節の徳川家康に対しての謁見以来不定期に続けられてきた将軍への拝謁、全部で166回行われ、シーボルトが参加した第162回江戸参府は史上最長の143日間をかけて行われました。
シーボルトの
江戸参府の特別性
2026年に200年を迎えるフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが参加した江戸参府は初回より数えて162回目であるが、全166回の中でも特別な輝きを持っている。
その最大の理由はやはりシーボルトという好奇心旺盛な稀有な人物が参加をしていたことであるが、加えて国家のあり方、特に海外よりの国防に関して大きな危機感を感じていた日本の侍たちが彼の活動範囲を広げさせたことも忘れてはならない。
出島出発より下関まで
1826年の1月9日(現在の2月10日)に出島を出発した162回目の江戸参府、総勢60余名となる。
オランダ商館からは商館長のスチュルレル、医師シーボルト、書記のビュルガーの3名が参加。随行の日本人は下役・通詞・書記の役人の他に人足・馬方・料理人など総勢57名に加えてシーボルトの助手として弟子の高良斎・石井宗謙・二宮敬作、画家の川原慶賀、下男の2名が同行をした。
使節団は長崎街道を進む、シーボルトは基本は駕篭に乗るが道の悪いところは徒歩での移動となった、シーボルトは駕篭を降りるとより良く植物や景色を見ることが出来て上機嫌であったという。
下関より瀬戸内海を
航路で進み、室へ
下関で船の準備が整い、瀬戸内海を船旅で進む。26日(旧暦)に屋代島(周防大島)に上陸。
同島では象の歯の化石を発見し、調査を進めようとするが行程を遅らせるシーボルトを良く思わないスチュルレルの妨害で頓挫する。
この辺りからスチュルレルとシーボルトの関係が悪化し始める。
シーボルトが研究のために足を止めることや瀬戸内海の荒波での航路の遅れにいらだつスチュルレルに対して、船頭は40隻もの引き船を出して潮流を乗り切る、シーボルトはその経験と技量を絶賛。また漁船から聞こえる舟歌や夜の漁火に船旅を満喫したようだ。
大坂、京都を経て
東海道で江戸へ
2月5日(旧暦)に大坂入り、大坂の天候は残念ながら良くなかったが霞の中に現れた大阪城を見ながら大阪入り、4日間滞在をする。
ここでも待ち構えた患者たちの診察をする。
9日に大坂を発ち、京街道を急ぎつつ枚方で昼食、よる9時頃に伏見に着く。翌日に伏見を出て昼前には江戸参府の定宿である海老屋に入る。
17日に都を出発、四条大橋を渡って東海道を進む、草津宿(滋賀県草津市)で一泊し、手原では胃痛や頭痛の薬【和中散(わちゅうさん)】を売る豪商の大角家で休憩、大角家主人はシーボルトの依頼を受け、後日植物の採集などをして出島に送っている。
シーボルトの江戸参府
(江戸にて)
江戸到着の翌日から最新の蘭学を学ぶために長崎屋には多くの人々が訪れ、特に桂川甫賢・大槻玄沢・宇田川榕菴などが幾度も足を運びシーボルトと研究の交流を重ねた。
蝦夷や樺太を調査した探検家の最上徳内や幕府天文方の高橋景保との交流も深め、高橋からは伊能忠敬と高橋父子を中心に作成された大日本沿海輿地全図(通称、伊能図)を世界に広め、幕府の列島支配の盤石さ、地図作成技術の高さを示すことで国防の一助にしようと商館長のスチュルレルには同地図の銅板印刷を依頼、シーボルトもその頒布を依頼され同図の提供を受けた。
シーボルト事件の新事実
江戸参府より後の2年後、シーボルトによる国禁物の取得が発覚し、それに伴って幕府による大々的な調査が行われる。後に云われるシーボルト事件の発生である。
同調査はこれまではオランダ商船の座礁により発覚した等の後世の創作が史実と錯誤されてきたが、1996年に横浜薬科大学の梶輝行教授がオランダ・ハーグ国立中央文書館所蔵の日本関係文書のうち、1826年にオランダ商館長が公務で記録した「江戸参府日記」(オランダ語文)の中で、江戸滞在中の期間の記録を翻訳して考察、新たな歴史的事実を確認、発表されました。
シーボルトスパイ説について
シーボルト事件についての創作と史実の混濁により、シーボルトスパイ説が長く世に流布をされてきましたが、実際にシーボルト事件の調査においてシーボルトがスパイとして扱われた事実はなく、また再来日時にシーボルトは幕府の外交顧問となりますが過去とはいえスパイの嫌疑があった人物を幕府が外交顧問に雇用することはありえないことなどからも現実的な説とは言えません。
シーボルトと日本のその後
シーボルトは国外追放後に日本に関する書籍『日本』『日本植物誌』『日本動物誌』などの大著の他に日本での音楽の作曲集など様々な書籍を発刊。
また、自身のコレクションの展示会なども行い西洋諸国にジャポニズムブームを創り出します。