シーボルトの江戸参府の特別性

シーボルトは1641年のオランダ商館移設より1859年まで、およそ200年余り西欧との窓口として存在した出島において唯一出島外での精力的な活動を許された訳だが、その象徴である鳴滝塾の開設を許可したのは当時の長崎奉行である高橋越前守重賢。彼は長崎奉行となる前の函館で奉行支配吟味役時代に日本側の代表としてとしてゴローニン事件を解決に導くなどの活躍をしており、当時の日本においては国防の最前線に立ち続けてきた人物である。


江戸参府においてもそのシーボルトの特別性は存分に発揮され、多くの西欧人は先ずは乗りなれない駕篭で乗り物酔いに苦戦する中で、シーボルトはこの駕篭を“空飛ぶ研究室”と呼んで、道中に気になるものがあれば直ぐに飛び降りて研究し、駕篭に戻ってはその内容を書き留めていた。また、鳴滝塾で多くの門人を教えたことから道中各所の宿場には弟子たちが現地の研究者や医師たちを連れて訪れてシーボルトの指導を請い、またシーボルトにも多くのことを伝えた。シーボルトは大いに学び、またその期待に応えたことで大著“NIPPON”で西欧諸国に日本の姿を伝え、その文化や歴史に理解を与えた。

